【エッセイ】※2015年3月~4月のツイッターから抜粋したものです。

『勇気』について 

「勇気」と「自己正当化」は対極の姿勢。「でも…」「そうは言っても…」と言いたくなったときは、本当に勇気を出したくないのかを考えてみたい。勇気のない人生でよいのなら、いくらでも言い訳はできるのだから


3月29日

社会について知るにつれ、私の中で価値を持つようになった言葉が「勇気」。怖れのない(fearless)姿勢と言うこともできるが。傷つかないように…と怖れの世界で策を弄するよりも、自分の心の平和のために一歩勇気を出してみることが、確実に世界を変えると信じる。
「勇気」と「自己正当化」は対極の姿勢。「でも…」「そうは言っても…」と言いたくなったときは、本当に勇気を出したくないのかを考えてみたい。勇気のない人生でよいのなら、いくらでも言い訳はできるのだから。
「勇気」というのは、何も火事の現場に飛び込むことだけを意味するのではない(消防士は私が最も尊敬する職業だが)。自分の心の姿勢に責任を持ち、怖れではなく温かい心を選ぶ、と決めることは十分な勇気。つまり、攻撃的な人を「ああ、怖れているんだな」と見られる姿勢。
もちろん自分についても、自己正当化してしまったな、と思ったときは、「ごめんなさい、私は困っていたのです」と謝ることができるのも勇気。人間は完璧ではないけれども、どんなときにも勇気を発揮できるのがすばらしいところだと思う。
「勇気」を持つことは、もちろん社会に変化をもたらすと同時に、自分自身のエンパワーメントにもなる。「こんなこと、怖くてできない」ということは現実にあるだろう。しかし、自分のものの見方を、「怖れから、温かい心へ」というシフトは、危険なくできるはずだ。

4月10日

(1)「勇気」と言えば私の場合、選挙に出ることよりもAHの活動を日本で始めることの方が勇気を必要とした。親しい先輩達は「水島は落選のショックで宗教に走ったのではないか」みたいな心配もあったらしい。むしろ郵政解散の落選は私にとってはAHに従事する機会を生んだ。
(2)確かに、尊敬・信頼し、常に相談相手になってもらっていた高名な先輩達に痛い目で見られながら新たな活動をゼロから興すのは勇気を必要とした。でも、AHによって個人の心が平和になれば社会が平和になるという信念は揺らがなかった。
(3)今では、当時心配してくださった先輩方も、AHを応援してくださっている(と思っている)。また、この件によって干されることもなく、未だに精神科領域で偉そうに振る舞っている。新しいことに人が慣れる時間は必要だし、何と言っても揺るがない自分の信念が重要なのだなと。