国会報告 その53(2001.7.16発行)

水島広子の活動の様子をお伝えするために、毎週1回(月曜日)発行しております




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国会報告(7/8〜7/14)

■7月8日(日)〜7月14日(土)

7月8日(日)に行われた山田みやこさんの総決起集会も、650名の方 が集まってくださり無事終了。
私はビデオメッセージで参加。
全国の参院 選候補者の応援で超多忙な小宮山洋子参議院議員が司会役として駆けつけ てくださった。

小宮山さんは、総決起集会後、参院選候補者の谷ひろゆきさん、山田みや こさんと共に、街頭演説と練り歩きをしてくださった後、私の病室にも寄 ってくださった。
一刻も早く退院して選挙応援をしたいという私に対し、 「絶対にだめよ。
選挙は私たちでいくらでも応援できるけれど、赤ちゃん のことだけは広子さんしかできないんですからね」と、私の「政界の母」 を名乗るだけある、母のようなお言葉。
「絶対に無理をさせないでくださ いよ」と主治医にクギを刺して帰っていった。

切迫流産・早産(妊娠週数によって呼び方が異なる)に見舞われる妊婦は 決して少なくない。
多くは私のように突然やってくるため、休むための仕 事の段取りもできておらず、上の子どもがいる場合は子どもから突然引き 離され、家庭内はパニックになってしまう。
本人は本人で、絶対安静では あるけれど、頭だけはしっかりしているため、「このまま子どもが流れて しまったらどうしよう」という不安や、「超低体重児が生まれてしまった ら、ちゃんと育てられるだろうか」という不安、仕事や家庭のことで他人 に迷惑をかけている罪悪感、家に残してきた子どもに関する心配、身動き できないストレス、などなど、大変な心理状態になることも少なくない。

今回、衆議院議員という立場での妊娠・出産に挑戦している私は、何と言 っても「子育て世代の声を政治の場に届ける」というのが政治的な最大の 目標である。
そうであれば、出産および産後のことだけでなく、妊娠中の 様々なトラブルについても、きちんと政治の場にメッセージを発すること が必要なのではないかということにようやく気づいた。
国会が終わり、少 なくとも寝泊まりだけは毎日一緒にできることになったはずの娘から再び 引き離される寂しさ、選挙の応援をしなければと気持ちばかりが焦って寝 ていなければならない悔しさ、こんな現状も一つの「子育て世代の声」な のだろう。

薬を一度はやめてみたが再び陣痛様の子宮収縮が始まってしまったため、 副作用に苦しみながらも服薬を再開した。
もちろん、相変わらず絶対安静 の身の上である。
そんな体調ではあるが、電話やテープ・ビデオを利用し てできるだけの選挙活動をしている。

7月9日(月)朝の恒例のマンデーリポートもテープで行った。
7月13日(木)の谷ひろゆきさんの出陣式にもテープで参加。

選挙活動の合間には、原稿チェックをしたり、参院選前に基本認識だけで もとりまとめなければならない「司法と精神医療の連携に関するプロジェ クトチーム」の報告書を作成したりする。
7月5日(木)に、東京医科歯 科大難治疾患研究所の山上晧教授と弁護士の池原毅和氏を講師に招いて勉 強会を行っている。
そのときのやりとりの録音原稿を見て、基本認識の報 告書を作っている。

システムとしての報告はまた後日させていただくとして、今回は、池田小 学校の事件を取り巻く、あまり語られない側面を紹介させていただきたい。

池田小学校事件以降、精神障害者の人権問題に取り組む団体の施設に石が 投げられたり、某町議会で精神障害者の休憩所用にほぼ確実にとれるはず だった予算が突如反対多数でとれなくなってしまったり、という出来事が 相次いでいるそうだ。
日本社会の未熟さ、そして「イジメ体質」を象徴す る出来事だと思っている。
そんな中、精神科に通院している方からメールをいただいた。
こんな視点 からも、今回の事件をとらえなおしていただきたいと思い、紹介させてい ただきます。



■読者からいただいたメール

とにもかくにも、今回の事件は、あらゆる意味で「悲痛な事件」であると 同時に、どこにも救いのない出来事であったと思います。
命をなくした子供たちは勿論のこと、その家族、幼い小学生のお友だち、 学校の先生方、地元の人々…。
それだけでは、ありません。
あの事件がおきた日の、最初の報道のせいで、どれだけの人が、不安や苦 痛に晒されたことかを思うと、被害者は、本当にたくさんいると思ってい ます。
私の思っていたことの半分は、水島さんの国会報告の中で書かれていたの で省きますが、それ以外のことを書かせて頂きます。
一視聴者としての視 点で。

事件の報道というものは、どこまで責任を持ってくれるのでしょうか? 私は、あの当日、最初の「報道特集」というタイトルで、番組内容変更さ れたお昼のニュースを見てしまいましたが、あのような放送は、本当に 「報道」と言えるのでしょうか? また「ニュース」と言えるのでしょう か? 警察の発表もないうちから、現場だけの映像を流して、なんの知識 もないキャスターが、精神病のことについてコメントしたり、薬のことを 話したり、まだ、服用したのが本当に「精神安定剤」なのかどうか、ある いは、それが直接事件に結びついたのかどうか、その事件を起す前にも、 容疑者が、職場で起したと言われている、同僚にお茶に混ぜて飲ませたの が本当に精神科で出された薬なのかどうか? そうしうたことを、確認もないまま、多くの視聴者に向かって伝えること は、責任ある報道と言えるのでしょうか?

その上、「ニュース」を伝える者として、冷静さを欠いた表情や口調で、 コメントを喋ることが、どれだけ、見ている者に不安と焦りと恐怖感を与 えるのか、そういうことは、誰も指摘しないのでしょうか? ショッキングな映像を何度も繰り返して流し、新しい事実も入らないまま、 ただ報道特集という風に、番組変更をしてしまうことが正しいことだとは、 どうしても思えませんでした。

一番最初に流される情報というものが、どれだけ人々の心の中に、事件の 印象を植え付けるかということは、想像に難くないと思います。
私たち精 神病患者が一視聴者として何か言わせて頂くとすれば、法律の改正や、精 神病患者の扱いや、精神病院の対応よりも先に、テレビやラジオという、 いきなり飛び込んで来る、情報の送り側のことをもっと問題にして欲しい ということです。

病院で出された薬の効用の説明をきちんと知って飲んでいる精神病患者な ら、あの報道がどれくらい「オカシイ」かということは、すぐに分かりま す。
「幻覚状態」と、精神科の薬を多量に服用して「酩酊」に近い状態という のとは全く違うものだということも、そして、多量に薬を飲んだのであれ ば、あんな行動は(服用した時間にもよりますが)到底取れないはずだろ うということ、そして、バスの運転手を職業にできていたことや、他にも、 精神病患者の薬を服用しているなら、矛盾している事情がたくさんあった ということも。
正確な事実を、取材できていたならば、あるいは、報道する側の誰かが、 そうしたことに、精通した知識を持っていたならば、最初の第一報という 形であんなことが、ニュースとして流れるはずはないと思うのです。
もしくは、流すはずはないと。

もしも、私が、何も知らない「精神病患者」だったなら、きっと自分も、 病院で出された薬を多量に服用したら、あんな状態になってしまうのだろ うか? と思うでしょう。
もしも、私が、何も知らない「精神病患者」を家族に持つ者だったなら、 きっと、自分の家族は、そんな幻覚を見るような薬を飲まされているのだ ろうか? 自分の家族も、あんなことをしてしまうのだろうか? と思う でしょう。
もしも、私が、小さな子供を持つ親や親戚であったなら、あんな映像を見 せては、子供が不安や恐怖感をもってしまうだろうと、そのことを、不安 に思うでしょう。
そして、うちの子供の通う学校は、安全なんだろうか?と心配するでしょ う。
子供に何を、どう説明し、何が危険で、何に対してどう対処すればい いか、説明するのに、きっと困るでしょう。
もしも、私が、あの事件の被害に遭ってしまった子供たちと同じくらいの 年の子供だったなら、あの放送を見て、怖くて外に出られなくなるかもし れません。
もしも、精神科に通っている人を知っている者だったなら、あの子も、あ んな風になってしまうの?と思ってしまかもしれないでしょう。
逆に、そんなことは、あの子はしないと、よく知っている友達であれば、 あの事件のことを、話題にあげていいのかどうか、戸惑ってしまうでしょ う。

あの事件の直後に、現場にいた、命の助かった子供たちにマイクを向けて、 事件の現場の状況を話させることは、信じられませんでした。
そんなこと を平気でする人たちが、「PTSD」などと云う言葉を、使っていることに、 矛盾を感じずにはいられませんでした。

そして、実際に「精神病患者」としての私は、、、、。
また、住みにくい、 つきあいづらい環境になってしまった、と思いました。
何処へ行っても、 誰に対しても自分の病名を言うことに、重圧感を覚えることになります。
そして、自分の病気や薬のことを聞かれた時に説明をすることに、とって もエネルギーを費やすことになるのです。

いくら、法律や病院側の体制が変わっても、それまでの間に、一部のマス コミの、誤解を与える報道によってもう既に作られてしまった規制概念が 日本中の普通の人々の中から消えてくれるまでには、もっとずっと長い時 間がかかってしまいます。
事件から、今日までに、どんどん新しい事実は明かされてきました。
それ によって、あの最初の報道は、間違っていなかったにしても、正しくはな かったということも、分かってきました。
それでも、一番最初に、普通の人たちの中に出来上がってしまった ”印象” や、”通念”のようなものは、それほど変わってはくれません。

早いだけが「ニュース」ではないということを、報道する側の人々に自覚 して欲しいと思います。
もっと言わせてもらえば、ああしたテレビでの放 送は、「暴力的」でしかありません。
そうしたものを、報道という名前で 放送することに、規制をかけて欲しいと思うほどです。
正しい事実でなけ れば、ニュースでも報道でもないと思います。
そして、流してしまった放 送に対して何の責任も持たないのなら、自粛することを考えて欲しいと思 います。

誘拐事件などには、報道規定や、報道協定というものがありますよね?
それは、人命を一番に考えることと、プライバシーの保護という元に警察 の側から与えられているものですよね?
そうしたことを、今回のような事件にも、設定できないのでしょうか?
報道の自由とは、何ですか?(警察や国家が出てくるとその自由を主張す るのですが) スクープをとることが、ニュースなのですか?
放送局間の、競争ですか?
報道は、そうした自分たちのとった行動や放送内容のことを何もしなかっ たかのように、すぐに法律の問題や、精神科のあり方や、そんなことに、 問題をすりかえてしまいますが、本当に、あの当日、日本中に、不安や恐 怖や怒りを、ばら撒いたのは、他でもない、あのマスコミという報道機関 だったということを分かっているのか、いないのか、責任をとろうとしな いだけなのか、そんな態度で、情報を流し続けることに、一番疑問をもち ます。

病院側の体制を変えるのには、時間がかかります。
事件を起したことのある、精神病患者に対する対応を、どうするかについ て規定を定めるのにも、時間がかかります。
司法が、そこに介入するということに至るにも、時間がかかります。
でも、報道の自由という名のもとに、切り取られた、チョイスされただけ の情報を全てだというようなマスコミの体制をかえる方が、ずっと時間の かからないことで、最も効果のあることだと思います。

そろそろ、泣いてばかりもいられません。
それでも、他人事ではないのです。
このままの社会の中で生活していかな ければならないのは、私たちなのですから。
私たちは、何も出来ずに、事件のことが普通の人々の記憶から遠のいてい しまうまで、黙りこんで静かにしていなければいけないのでしょうか。
そ れまで、何もできずにいなければならないのでしょうか。
むしろ、私たち には、一体何が出来るのでしょう。

誰にも話せずに、今日まで過ごして来ましたが、やっと言葉にすることが 出来ました。
もう二度と、こんな事件は起きてはイケナイのです。
私は、 加害者と被害者の両方になってしまった気がしました。
もちろん、気持ち の中だけで、ですが。

池田小学校の事件は、言うまでもなく悲痛な「暴力」そのものですが、そ の報道や、報道の仕方も、ある意味では、もう一つの「暴力」だと感じて います。

「痛くない暴力なんて、ないんです」
それが、どんな形での暴力 であっても。
そのことを、もっと知って欲しいと思っています。
私のこん な想いは、おかしいでしょうか?


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